泥 江 縣 神 社
名 称
泥江縣神社 (ひじえあがたじんじゃ)
住 所
名古屋市中区中区錦一丁目7-29
祭 神
神功皇后 (じんぐうこうごう)
姫大神 (ひめおおかみ)
應神天皇 (おうじんてんのう)
由 緒
「国内神名帳」に従三位泥江縣天神とあり、泥江転じて広江となり又広井と呼ぶ社記に清和天皇の貞観元年(859)宇佐より勧請し、天正の頃より広井八幡宮と称して名古屋城築城以前は御園町、伝馬町、葭町、材木町まで広大な境内だった。応永、永楽、慶長、寛永(1394-624)に重複あり寛文二年(1662)二代藩主光友が修営し貞亭四年(1687)造営する。元禄十三年(1700)二月7日と亭保九年(1724)五月十三日両度の大火に炎上する。
社殿は勿論山車などみな焼失したが、傘鉾車のみ健在なり。明治五年、村社に列し同十五年四月、郷社に昇格した。昭和二十年三月十九日の空襲で社殿重宝みな焼失し同三十六年に復興せしも同四十年二月五日不審火にて社殿炎上するも神体は安泰にて同四十二年十月に社殿復旧した。
【上記引用:愛知県神社名鑑より】
【神社立札より】祭神は、応仁天皇・神功皇后と三女神。尾張本国帳には、「泥江縣天神」とある。
社伝によれば、清和天皇の貞観元年(859)に、豊前国宇佐(大分県宇佐市)の八幡宮の分霊として勧請したという
当時は、八丁四方の広大な社域を有したが、慶長の検地・町割、戦後の道路整備等で減少してきた。天正のころから広井八幡宮と呼ばれ、藩主を始め広く民衆の崇敬を集めた。七代藩主・宗春のころには、境内に芝居小屋も作られた。祭礼日は、神輿が傘鉾を従え、丸の内一丁目の白山社へ渡御し、山車も出たという。
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